勝てない理由(2)

Sophiee Winkler

2010年02月25日 14:47




昨日の続きです。私たちは自宅の居間やネットカフェで冬季五輪や世界陸上や世界水泳の番組を見ながら、「馬鹿!」とか「死ね!」とか叫んでいますね。その多くは応援している側の選手や、監督や、コーチや、アナウンサーや解説者に向けられています。でも実際には彼等は馬鹿ではないし、寝そべりながらお煎餅を撒き散らして叫んでいる私たちより、何千倍もその競技について知っているし、血のにじむような努力の果てにその場に立っている卓越した人達なのです。

それなのに私たちは何故そんな風に感じてしまうのでしょうか?このギャップがテーマです。一つにはお馬鹿なのはやはり私たちで、断片的な情報しか与えられていないし、何の経験もないのに自分の方が競技者や審判や監督よりもその競技について詳しく知っていると錯覚しているという場合です。全く救いようがないですね。まあ、その感情移入がスポーツの楽しさのひとつには違いないのですが。

でも、これがスポーツ観戦くらいならいいのですが、国と国との戦いになると大変深刻なことになります。祖母に聞いたことがありますが、真珠湾奇襲成功の一報があったときに、一般の国民は祖父母も含めて「やった!」、「ザマを見ろ!」と喝采を叫んでいたそうです。そうして戦争に負けると突然多くの人は「被害者」になって、「天皇の戦争責任」を論じる評論家に目出度くご変身なさったということです。ちょっとTVを見て新聞や雑誌を読んだくらいで簡単に「専門家」気取りになってしまう私たち。発展途上国になるほどこの傾向が強いのですが、日本はこの面では未だに客観的な報道や批評が根付いていない途上国のレベルですね。

しかし、これだけでは説明しきれない状況が起きるときも少なくありません。例えば何故か監督は硬直した判断を維持し続け、大方の予想通り負けてしまうという場合です。明らかに状況が変わってきているのに、自分の立てた作戦に固執し、無様に粉砕されてしまう監督やコーチ。素人以下の判断能力しかないみたいに見えてしまうのは何故なのか?彼らの頭の中では何が起こっていたのでしょうか?この辺りもちゃんと研究する人が欲しいのですが、あまりいないようですね。

私がこの短い時間と紙幅の間に大雑把に仮説を立てるとすると、まず監督はすべて分かっているのに硬直した対応を続けざるを得ない、何者かによってそのように束縛されている場合があります。次に別にそのような外部からの働きかけはないのに、監督自身脳が筋肉化していて、自分の立てた戦略や、作戦や、お気に入りの選手と心中してしまうような場合です。

前者の場合の立役者は協会やスポンサーです。自分達の育成した選手を絶対に使え、スポンサーの開発した用具、商品を使え、他社に所属している選手は使うなというような「スポーツの私物化」が五輪の現場でも起きています。極端な場合にはしっかりとした勝つための戦略や方針を持っている人物を監督候補から外し、自分達の意向に諾々と従う者を監督に据えるというようなことを協会のオジサンたちはやってのけます。

大体昨日述べたようにそういう私物化は選手選考の過程で既に始まっているのですから、本番にまでそれが及ぶというのは当たり前で、監督はたまたま相手がこけることを祈りつつ、無謀な戦いを受動的に遂行するという選択肢に身を委ねます。太平洋戦争の日本陸軍の現地司令官は概ねこのパターンで、「玉砕」という言葉が今でも日本のスポーツシーンに受け継がれているのは、根拠のないことではないのです。

このような監督に必要な資質は「自分で自分を誤魔化す能力」で、前回ワールドカップのジーコ監督もひょっとしたら始めから存在していなかったかもしれない「日本への愛情」とか「プライド」をもっと具体的な数えられるものと交換できたので満足だったかもしれないですね。割り切ってしまえば監督業もうんと楽になるという例です。

次に本当にお馬鹿な場合です。例えば自分が育成したり、開拓したりしてきた選手や戦術を相手チームや、自分のチームの状況に全く合っていないにも係わらず使い続けようという場合です。全日本女子のバレーチームのY監督なんかは明快なサンプルです。

こういう監督の場合は結局「自我」が強すぎて客観的に物事を見ることがある時点からできなくなっている、あるいは自らの成功体験に拘束されて、大きな変化にチャレンジすることができないということでしょう。サッカー日本代表の岡田監督は上記2種類の折衷型になります。脱線しますが、今回のW杯ほど技術的な準備や作戦がない状態で臨むというのも珍しいですね。映画の「ラスト・サムライ」の再現をやろうとしているのでしょうか?

これらの監督の意識は「勝つ」という一点に集中してゼロベースで必要なことを考え手を打つということにはなっていません。前者の場合は、頼まれたからその制約の範囲で引き受ける、結果が出ないのは自分のせいだけとは言い切れないというもので、コミットメントというものが欠如しています。彼らの心の中にはどうせ協会が全部牛耳っているのだからという言い訳が最初から用意されているのでしょうね。また、後者の場合は全部自分の思い通りにやるということが先に立っていて、それで勝てるかどうかの客観的な判断ができないので、永久に同じ誤りを繰り返すということになり、それが私たちには馬鹿に見えてしまうわけです。

監督というのは孤独な仕事です。方針は出さなければいけないけど、本心は出せないという使い分けを強いられます。色んなところから圧力が掛かります。今日調子のよい選手でも次回同じレベルで働いてくれるかなんて全く分かりません。打てる手は限られています。結果だけで評価されてしまいます。手駒も準備も既に別の誰かが引いた線路に沿って走っていくしかないのです。生贄のヤギ以外の何ものでもありません。

でも、そのような不条理のなかで不貞腐れてしまわないで、自らの信じるところにしたがって協会やマスコミや選手と闘って捻じ伏せていく、それが出来る人でなければ監督など引き受けるべきではないと思います。仮に全ての戦いに敗れたとしても、その意図を伝えることができれば、観客やサポーターは拍手を送ってくれるでしょう。協会は?さあ?

まあ、この協会という代物が諸悪の根源でもあり、また成功の鍵を握るところでもあるし、その実態をつぶさに見るということも普通は経験できないので、なかなか悩ましい存在ではあるわけです。一種の官僚組織として評価するというのが一つの切り口にはなると思います。しかし、この難物に取り組む前に解説者、評論家のことを考えてみたいと思います。
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