SLってAddictive?

Sophiee Winkler

2010年03月16日 13:17




Heraldの記者のJessica Holyokeはまたまた、「SLはAddictive(常習性がある)か?」なんていう投げかけを行なって、読者の書き込みを募っています。まあ、これも昨日と同じであまり意味のない質問ですね。SLをやる目的は人によって様々だし、人はSL以外のいろんなものに嵌まっているし、飽きるってこともありますからね。

英語の意味を厳密に受け止めるなら、病的に惹きつけられて止められなくなるということでしょう。でもSLを始めて短期間で止めてしまう人の方が、やり続けるひとよりうんと多いのだし、2年も経つとだんだん飽きてきて止めてしまう人もいっぱいいます。だから麻薬や覚せい剤と同等の常習性というのはないですね。

しかし一方でお金をどんどんつぎ込んで土地を買い、RLの時間もなくなってしまうくらいにSLにログインし続けている人もいます。そういう人にとっては確かに他のものに代え難い魅力というか、強烈な常習性があるわけです。だから一般論でこんなことを考えていてもあまり意味はないでしょう。

人は世の中のいろんなものに耽溺します。異性とか、車とか、麻薬とか、映画、スポーツ、鉄道、もろもろのコレクション、等々幾ら書き出してもきりがないくらいです。その根源には何があるのでしょうか?

翻って動物は人間が教えない限りはあまり何かに嵌まるということはないようです。動物の使命は自分が生き延びることと、種の保存ですから、それに必要な範囲で夢中になることはあっても、それらが満たされれば忘れてしまいますね。それが健全な状態なのでしょう。必要以上に獲物を取ったり、溜め込んだり、自慢したりはしないということですね。

ところが人間は生存の必要性というものから離れて、そんなことしても客観的には何の意味もないということをやり続けてしまうことがあります。

お釈迦様は正しく生きるためのヒントとして、「物事を客観的によく観察すること」と「ものごとに捉われないこと。」を勧めてくれています。これらは表裏一体で、一つのことに執着してしまうと、正しい考えや判断が失われかねないからですね。だから、実際に僧侶であったり、あるいは仏教信者を標榜していても、何かに執着して人と言い争ったり、自慢したりしている人は「心の平穏」を手に入れることはできないし、幸せではありません。身過ぎ世過ぎのための宗教者ということになります。

でも私たちは日常生活では様々なものに執着しています。子どもをいい学校に入れたい、安全性が高いからドイツ車を買いたい、やっぱりユニクロばかりじゃ恥ずかしい、入院するならどうしても個室だ、等々。それなりにまともそうな理由をつけますが、その根源には貪婪な心があったり、虚栄心や支配欲があったりするのですね。

私たちはこの社会のなかでそれなりの生活を送り、それなりの地位を占めるために、様々なものに執着して、計画を立て、それを実行して目的を果たそうとします。そうしてそのようにしない人達、途中で諦めてしまう人達を、「怠け者」とか「無能者」と呼んで優越感を感じたりします。

それはそのときにはある程度必要で、何かそういった欲望や執着がなければ、みんな本来の宗教家みたいになってしまいます。でも何年も前のことを思い出してみると、あのときあんなに一生懸命になっていたもののほとんどのことは意味がなかった、山のようなテディベアの縫いぐるみのコレクションや、父の鉄道模型のコレクションも、いまでは掃除の邪魔になっているだけだし、ハイチの難民を救うこともできません。

一方でそのようなAddict(耽る人達)の存在のお蔭で経済は発展し、人々は職にありつくことができています。みんなが一斉に「清貧」に生きようとすれば、ブラックホールのような底なしのデフレに突入してしまうことでしょう。

そういう自らの未熟さが凝縮してしまったものとしてではなくて、自らの可能性を拓いてくれるものとしてのSLであるために、今後はRLのものに対する執着もどんどん減らして、すっきりさせて行こうかなと思ったのでした。まずはお部屋のお掃除ですね。余計な本も書類も捨ててしまいましょう。
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