2015年08月31日
セカンドライフの検案書

2014年にはセカンドライフの現状を伝える日本語の記事が一つ二つどこかに出ていたのですが、今年はもう見当たりません。人も死んだ当座は話題になりますが、やがては誰も名前を口にすることもなくなってしまいます。とんでもないすごいことをやれば、歴史に名が残るのですが、SLはどうなんでしょう?
私が不思議に思うのは、SLの現状や終末について、ユーザーが述べたものがほとんどないことです。商売で記事を書いているSNS評論家みたいな人や、ちょっと齧って止めてしまった似非ユーザーが述べたことというのは現実的とは言い難い。
前者はSLの失敗の原因を仮想通貨の不完全なシステムや恣意的なコントロールに求めたり、進化を続けるゲームソフトの映像技術の足元にも及ばないSLの稚拙さに責めを帰そうとしています。後者はどうでもいいですね。
これらの死体検案書にないのは「クリエーター」の視点です。SLと他のゲームの最大の違いは、プレイヤーがコンテンツを自ら作れるという点です。だから技術的には限りがあるし、お定まりのストーリーなんていうものもありません。
そもそも仮想通貨なんていっても、現実の「通貨」も仮想に過ぎないものであって、それが社会で用をなしているのは、発行者に対する信瀬に裏打ちされているからです。だからビットコインも現実の世界においては「仮想」ですらありません。リンデンドルにだけそれ以上のものを求めても仕方ないと思います。
お金を出せば美しい映像に支えられたコンテンツは消費の対象として入手できます。でもそれは有償です。自然の生み出したものでない限り、どんなものにでも作り手がいます。消費するほどの価値がないのなら廃れていくのは当然ですが、価値があるのであれば対価を払わねばなりません。それをしないで無償のものを求め続けるのは東北アジアの一部の国の人民やネット民と異なることはありません。
と、ここまで書いて気がついたのですが、SLは始めから「作る者」のためのゲームであって、それを消費する者というのは結局は脇役だったのだということです。もし消費者が主役になるのであれば、SLではなくて普通のゲームでいいのです。つまり与え続けるだけの有償のコンテンツですね。それはSLではないし、そんなものは目指してはいなかった。
では何を目指していたのか? う~ん、何も目指していなかったのかもしれないし、はっきりとしたビジョンはなかったのかもしれません。死体を切り刻めば死因らしきものは見えてきますが、生きていたときに何を考えていたかまでは分かりません。答えはSLに代わる何かが立ち上がり、指し示してくれる形になるのかなと思います。
