2008年06月12日
透明は御好き?
考えてみると長いこと英語のブログをそのまま訳すというのをやっていませんでしたね。大体筆者から許可貰っているわけでもないし、なんか自分の考えがないみたいなので、よほど大事なことでないとそうしないわけです。
でも、英語の話の組み立て方の面白さとか、自身の英語力のアップとか、読者に私のなまくらな文章ばかりでなくて、もっと客観性のある情報を知ってもらえるというようないい面もありますね。
ということで主としてMassivelyのTateru Nino氏、Second ThoughtsのProkovy Neva氏、SL SocietyのGewyneth Llewelyn氏、Online Community Report のBill Johnston氏などのブログを訳してみているわけです。それぞれ個性があって面白いけど、分り難いものもあります。
今日は久しぶりに私が日ごろ感じていることと同じことを9日付けのMassivelyでNinoさんが言っているので、それを訳してみましょう。簡単にいうとリンデンラボの言う「透明性」ってどうなのっていうテーマです。この文章は出てくる単語が抽象的で難しいですね。だから私たちのなかには途中で読むのを止めてしまう人も少なくないはず。訳すことに意味があると思います。
「ビジネスにおいても職場においてもリンデンラボはその透明性を非常に自慢にしている。情報の公開と透明性は『リンデン道』として祀られているというくらいのものだ。ただ、残念なことにこの透明性は内部においてのみ通用するようだ。
確かにリンデンラボは多くの興味深い役に立つ統計を出し、様々な種類のデータにアクセスできるようにしてくれている。このことは非常に素晴らしいものであるが、これは透明性というものではない。
Ben McClure いわく、『透明性とは信頼である。』
私たちが財務諸表であろうが事業運営であろうが、その透明性を云々する場合には核心部分というものがある。透明性とは単に事実や数字を公表することではない。実際そういうものは純粋な透明性が伴わない限り、物事を混乱させるのに利用されてしまう。
透明性というものはビジネスを明快で信頼に足る方法で運営していく能力である。とりわけビジネスの人的側面についてそう言える。透明性は企業において品質保証プログラムがもたらそうとしているものだが、それは非常に多くの企業で全く的外れな結果に終わっている。なぜならそれらの企業は基本的な目的を理解していないからだ。
『透明性とは信頼である。』という文句は、私たちがそれに効果を伴わせるために何度も繰り返して言えるように、カプセルみたいにいろんなものを縮小して詰め込んである。
透明にするためには、何をおいてもあなた自身が分り易く明快な、率直で誠実な言動をとらなくてはならない。これらは『予見可能性』という透明性を考える上での共通の土台の基礎に当たる事柄である。」
ううう……何て難しいの。やっぱり昼間からステーキ食べてる人は違うわ。
「透明な会社というのは、何人かいる企業の内部情報の露出狂のように、一日のうちに起きたすべての小さな事柄をあなたに見せたり伝えたりする会社ではない。また、帳簿を公開したり、統計や公式に手に入る数字まで出版したりする会社でもない。また予見可能性とは、必ずしも予測もつかない事態や状況に見舞われたとき会社がどうするのかを予言しておくということでもない。
透明な会社とは、乱暴なまでに単純化した言い方だが、その一つひとつの部分がどのように動くかをあなたに伝え、伝えた通りにそれが動くような会社だ。あなたはそのメカニズムを理解し、その企業が述べられた通りに機能するということに自信を持つ。それがあなたに信頼感を与えるのだ。
この基本的な定義を受け入れるなら、リンデンラボがその種の透明性を無邪気なまでに持っていないということに気付くのは難しいことではない。こういった予見可能性や信頼性というのはリンデンラボが伝統的に背を向けてきたことだ。
『もしそんなに素晴らしいレベルの透明性を持っている会社が他にあるなら教えてよ。そうすれば社内で議論してそっちへ持って行けるかも。そうでなければ望みは薄いね。』
これはあるリンデンラボのメンバーが仕事の時間中に語ったことだ。表現の違いはあってもこのような言葉がリンデンラボの仕事中に聞けるというのは取り立てて珍しいことではない。そう言っているリンデンラボのスタッフ達自身、透明性の実現については社内的には骨の折れる闘いになるということが分かっている。
財務やその他の数字についての知りたいというのはまれである。疑問に思っているのはリンデンラボがどのように業務を運営していくか、とりわけ顧客つまりあなたや私やその他、我々すべてをどう扱うのかのポリシーについてなのだ。
いまのところリンデンラボは大きな黒い袋のように見える。中身は想像するしかなく、その動きや膨らみが大いに気になるといった代物だ。それ自身ではなくて、どういう理屈でそうなっているのかが気になるのだ。
それは明確なルールのないパズルであって、リンデンラボは依然としてパズルであり続けている。私たちが知りたいのはある部署が一日中何をやっているのかではなく、銀行にリンデンラボがどれ位のキャッシュを持っているのかでもなく、ネットワークオペレーションのエンジニアにどれ位お金を払っているかでもない。また、個別の(児童)虐待の報告がどのように取り扱われたかでもない。
それはつまり、私たちが時々やっているように、手に入る小さな意味ありげなスクラップの断片からパズルのルールを探り当てたいということだ。それは信頼というほどのものでもないし、とうてい透明性などというものではない。」
「透明性」とか「公開性」などと大仰な言葉を持ち出して自慢しつつ、実質的にはポリシーや将来構想について納得のいくレベルで明らかにしてくれないということに対して、Tateru Nino はフラストレーションを募らせているんですね。私もそうなんです。ひょっとすると、出口戦略は別にして実は考えていないということかしら?
Posted by Sophiee Winkler at 13:31│Comments(0)
│ビジネス
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